阿弥陀寺(あみだじ) 会津若松市七日町(なぬかまち)
会津?、会津若松市は「町」を「まち」と読み「ちょう」と読む場所はありません。
また、七日町は「なのかまち」ではなく「なぬかまち」と読みます。
タイトルの御三階、東軍墓地、斎藤 一の墓って何のこと?という人も多かろうと思います。
斎藤 一は新選組で全国区で有名だと思いますが、自分もよくわかってませんでした。
阿弥陀寺(あみだじ)は慶長8年(1603年)に良然和尚が開山した浄土宗の寺です。
阿弥陀寺は七日町通りの七日町駅近く。駅の通り反対側にあります。
御三階(ごさんかい) 鶴ヶ城の遺構
戊辰戦争で阿弥陀寺の堂宇が消失し、明治3年、鶴ヶ城(若松城)の小天守にあたる「御三階」(ごさんかい)を移築し仮の本堂としました。
外観は3階ですが、内部は4階構造で、密儀の場所として使用されていたのではないかと考えられています。鶴ヶ城の遺構になります。
入れたらいいのですが、残念ながら入れません。
見かけは確かに三階です。
– 以下は案内板よりの写しです –
江戸時代の建築で、明治初年まで鶴ヶ城(つるがじょう)本丸にありましたが、明治3年にこの地に移されました。外観は3階ですが、内部は4層になっており、2階と3階の間に天井の低い部屋があります。3階に上る梯子は用のない者が上がれないように、上から引き上げる仕組みになっており、当時は密儀所に使用されていたと思われます。また、本丸北東の正方形の石垣の上に建っていたところから、物見や展望台の役目を果たしていました。
戊辰戦争の戦火で阿弥陀寺が消失したために、長く本堂として使用されてきました。玄関の唐破風(からはふ)は城内本丸御殿の玄関の一部を配したものです。鶴ヶ城の遺構として唯一残る貴重な建物です。
補足すると、1874年( 明治7年)、鶴ヶ城は解体されました。
本丸は、石垣で周りを囲われた天守閣のある区域で、堀沿いには櫓(やぐら、敵状の偵察や射撃のための高楼)が作られたりしてました。
現在ある天守閣は、鉄筋コンクリートの外観復元されたもので、内部は資料館みたいになっています。
新選組隊士 斎藤 一(さいとう はじめ)の墓
新選組の斎藤 一は後に藤田 五郎と改名し明治、大正(大正4年没)時代を生きました。
新選組は24名から発足、最盛時は200名を越えました。
物語やドラマ、映画などで取り上げられ、幹部や隊長クラスだとその名を知っている人もあるでしょう。斎藤 一(さいとう はじめ)は新選組で副長助勤、三番隊隊長、撃剣師範を務めました。
そんな斎藤 一(さいとう はじめ)が会津に埋葬された経緯をざっくりと説明します。(後述の案内板からの写しと話は一部被ります)
戊辰戦戦争で会津入りした新選組の斎藤 一は、会津藩の降伏後も戦い続けたましたが、松平容保が派遣した使者の説得によって投降します。その後、会津藩士と共に謹慎生活をして(幽閉されて)いましたが、再興を許された会津松平家と共に斗南藩士として下北半島へ赴きます。
明治7年(1874年)7月、東京に移住し警視庁に採用されました。西南戦争にも参加し、この時の活躍で、政府から勲七等青色桐葉章を授与されています。
死没 大正4年(1915年)9月28日(71歳没)、会津に埋葬されました。
– 以下は案内板よりの写しです –
新選組隊士 斎藤一(藤田 五郎)の墓
斎藤一は、1844年(弘化元年)御家人の父、山口祐助・母マスとの間に生まれた。初名を山口一、のち斎藤一に改めた。
1863年(文久三年)壬生浪士組、のちの新選組に参加し、副長助勤、三番隊隊長として活躍、沖田総司、永倉新八と並ぶ剣客で剣術師範も務めた。池田屋事件にも参戦。その後、伊藤甲子太郎らが、御陵衛士を拝命し、新選組から分離した時、伊藤に同調して離脱、しかし局長の近藤勇の密命によるものといわれ、油小路で伊藤らが暗殺された後、新選組に復帰し山口二郎と改名。
鳥羽伏見の戦い等を経て、会津若松城下に入り負傷した土方歳三に代わって新選組隊長となり、会津戊辰戦争を戦った。しかし西軍が城下に迫った時、「会津候(松平容保)あっての新選組、会津を見捨てることは出来ない」と隊士十余名と会津に残り仙台へ向かった土方と別れた。
会津藩降伏後は一瀬伝八と名乗り越後高田に幽閉。明治三年斗南へ移る際、藤田五郎と改名。その後上京し警視庁に入り、容保の媒酌により会津藩士 高木小十郎の娘、時尾(ときお)と結婚。警視庁においては西南戦争へ出陣するなど活躍。その後、東京教育博物館へ奉職し、1915年(大正4年)七二歳で逝去。
半生を会津人として生きた本人の希望によりここ阿弥陀寺に眠っている。
死去年齢が71歳、72歳とありますが、72歳は数え年(生まれた年を1歳と数える)と思われます。
東軍墓地 戊辰戦争戦死者を埋葬した墓地
戊辰戦争は白虎隊(二番隊の19名が自刃死。実際には戦死者も含む数)の様に若くして亡くなった人もいる反面、庶民は難を逃れて不要な死者は歴史的に見ても最低限であったようです。
戊辰戦争で8200人、西南戦争で1万2200人。刑死などを合わせても3万人前後。人口が維新期日本の80%(2700万)のフランス大革命では内乱と処刑だけで65万人、戦争を入れると100万。明治維新と同時期の米国の南北戦争では、両軍合わせて50万の戦死者。
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/meiji150/dai1/siryou2.pdf
山内昌之 東京大学名誉教授
会津藩が降伏し開城後、会津側戦死者の遺体は埋葬が許されず、翌春まで放置されました。
戦後残務のため会津若松に残された数十名の旧会津藩士は、埋葬地の設定を民生局に嘆願し続けた結果、阿弥陀寺、長命寺に限り埋葬許可が出ました。
阿弥陀寺に1281体、長命寺に145体が葬られています。
昭和村にある墓です。
矢ノ原地区「会津藩士 野村新平の墓」昭和村(福島県大沼郡)
戊辰戦争に関しては、徳川本家が降伏、恭順した後も戦いを続けていた為に余計な犠牲を出したという意見もあるのですが、確かに政治的にはその通りです。
ただ、新選組を作って給与を払った会津藩、京都守護職として会津の人を送り、実際に京都で亡くなった藩士を考えるとき、「風向きを見て意見を変える」という態度は、国家(会津藩)の為にならないという事になると思います。難しい判断です。
この難しい判断を、簡単に「誤り」とするのは早計だと思うのです。
もっと言えば、なぜ、会津藩が京都守護職につかなければならなかったかです。
会津ですよ、東北です、今でさえ、新幹線を使ってもとんでもなく遠い山の中。
そもそもが「政治」的側面は強く、「義」や「歴史」が持ち出されていたわけで、唐突に戊辰戦争があったわけではありません。
「勝てば官軍」とは、テロリズムの肯定になりますから、あまり良い言葉ではありません。
また、反テロに「目的は手段を肯定しない」というものがあります、会津が「朝敵」と呼ばれた事にはきちんとした背景説明を含めた補足説明が求められます。会津では、会津方が東軍に対して、新政府軍方を「官軍」ではなく「西軍」になります。
場所、地図
名称:阿弥陀寺所在地:〒965-0044 福島県会津若松市七日町4−20
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